2011/06/02 (Thu) 21:17
ちょっと家族について思うことがあった。
専門に入って気づいたのは「家族に悩みを話すことで、友達には頼らない」人がいること。
今まで見てきた人は「友達には悩みを話すが、家族には話さない」人が大半だったのですごく意外だったし、家族間の絆の浅薄化が問題となっている現代ですごく特異な存在に思えたが、専門にはその人種が多くいたので、考えさせられた。
あと、家族間の衝突を引き起こすうちの姉妹の「自分達は忙しいから何においても優先される」という考え方について。
専門に入って気づいたのは「家族に悩みを話すことで、友達には頼らない」人がいること。
今まで見てきた人は「友達には悩みを話すが、家族には話さない」人が大半だったのですごく意外だったし、家族間の絆の浅薄化が問題となっている現代ですごく特異な存在に思えたが、専門にはその人種が多くいたので、考えさせられた。
あと、家族間の衝突を引き起こすうちの姉妹の「自分達は忙しいから何においても優先される」という考え方について。
「悩みを親に相談することで、友達は頼らない」
これを最初に気づいた時は非常にマズく思った。
これが根底にあると、こっちが何を言ったところで深いところではちゃんと受け止めてくれないし、向こうからの話もこっちのことを考えてくれているのかわからなくなる。そんな人と自分だったら関わりたくない、友達がいなくなると思って間違いないんじゃないか。
いや、その人達からすると、外部に求めるのは「一緒に遊べる友達」であって「辛い時に助けてくれる人」ではないのかもしれないが。
でも、よく考えるとその考えはマズイわけではない気もする。
<家族>という絶対的なものを最後の砦としているので、頼る上では外部の友達よりも圧倒的に信頼できるだろうし、そこさえ確保していれば、外部の人に頼る必要すらないのかもしれない。危ういとしたら、その最後の砦がなくなった時だろうが、そんなことはそうそうないだろう。でも、亡くなった時はやっぱりやばそうだな…精神崩壊しかねない。が、その時はその時で外部に求めざるを得ないので、そこから変わっていく気もする。だから、まぁ大丈夫なんだろう。
その人達の存在によって気づかされたのが、ある種のジレンマだ。
家族に頼り切ってしまうと、外部に頼らなくなる。逆に外部に頼り始めれば、家族に頼らなくなる。
とはいえ、私が見てきた限りだと、人は家族から独立して、その後一定の距離を保ちつつ、最後のところでは家族を頼るという形の人が多いので、両極端でもないのだろう。というか一旦離れることで、それほど重要じゃないし、それほど要らなくもない。ということがわかるのだろう。
で、次うちの姉妹の「忙しいから何においても自分が優先される理論」。
これには本当にイラつかされた。あっちがそう思い込んでいる以上、こっちが何を言おうとあっちのストレス発散にしかならない。思い込みって本当に怖い。
親に対しても「私は抑えているのにあっちが勝手に怒る」というが、だったらお前は友達に対して「何でそんなこと聞くの!?聞いて何になるの!?」とかいうのかとつっこみたい。
拙者にできることと言えば、奴らから学ぶこと。どんな根拠であれ「自分優位」と考えるのは間違っている。それを実践できれば、プロジェクトリーダーとしてはいいリーダーになれる気もする。
あとこれは前述の話にも関連しているが、家族に対しての振る舞いと社会に対しての振る舞いが違う人について。多分どちらかが本性なのだと仮定すると。
うちの姉妹は特に顕著で、家族に対してはヒドイ態度(本性)だが、社会に対しては温厚な態度(理性)なのだろう。
<本性の対義語を調べて驚いた。ちょっと考えればわかるのだが、理性だったとは>
そういう意味では前述の親に悩みを相談する人達も、家族に相談し(本性)、社会にはある程度の距離をとる(理性)のかも。
あまり意味のない思索のように感じるかもしれないが、こう思ったのも、拙者が家族と社会に対しての違いがさほどないからだ。
あるとしたら、家族に対しては中立的な立場をとるが、社会に対しては主導的な立場をとる。と言ったところか。
家族内での中立的な立場は言わば適所対応であり、社会に対しての主導的立場は家族間の立場の反動なのかもしれない。
そう考えると自分の場合はどちらが本性でどちらが理性なのかがわからない。が、今までの例に当てはめて考えれば、適所対応な中立的立場が本性で、主導的立場が理性なのだろう。一応理解できる。
ほむり。
これを最初に気づいた時は非常にマズく思った。
これが根底にあると、こっちが何を言ったところで深いところではちゃんと受け止めてくれないし、向こうからの話もこっちのことを考えてくれているのかわからなくなる。そんな人と自分だったら関わりたくない、友達がいなくなると思って間違いないんじゃないか。
いや、その人達からすると、外部に求めるのは「一緒に遊べる友達」であって「辛い時に助けてくれる人」ではないのかもしれないが。
でも、よく考えるとその考えはマズイわけではない気もする。
<家族>という絶対的なものを最後の砦としているので、頼る上では外部の友達よりも圧倒的に信頼できるだろうし、そこさえ確保していれば、外部の人に頼る必要すらないのかもしれない。危ういとしたら、その最後の砦がなくなった時だろうが、そんなことはそうそうないだろう。でも、亡くなった時はやっぱりやばそうだな…精神崩壊しかねない。が、その時はその時で外部に求めざるを得ないので、そこから変わっていく気もする。だから、まぁ大丈夫なんだろう。
その人達の存在によって気づかされたのが、ある種のジレンマだ。
家族に頼り切ってしまうと、外部に頼らなくなる。逆に外部に頼り始めれば、家族に頼らなくなる。
とはいえ、私が見てきた限りだと、人は家族から独立して、その後一定の距離を保ちつつ、最後のところでは家族を頼るという形の人が多いので、両極端でもないのだろう。というか一旦離れることで、それほど重要じゃないし、それほど要らなくもない。ということがわかるのだろう。
で、次うちの姉妹の「忙しいから何においても自分が優先される理論」。
これには本当にイラつかされた。あっちがそう思い込んでいる以上、こっちが何を言おうとあっちのストレス発散にしかならない。思い込みって本当に怖い。
親に対しても「私は抑えているのにあっちが勝手に怒る」というが、だったらお前は友達に対して「何でそんなこと聞くの!?聞いて何になるの!?」とかいうのかとつっこみたい。
拙者にできることと言えば、奴らから学ぶこと。どんな根拠であれ「自分優位」と考えるのは間違っている。それを実践できれば、プロジェクトリーダーとしてはいいリーダーになれる気もする。
あとこれは前述の話にも関連しているが、家族に対しての振る舞いと社会に対しての振る舞いが違う人について。多分どちらかが本性なのだと仮定すると。
うちの姉妹は特に顕著で、家族に対してはヒドイ態度(本性)だが、社会に対しては温厚な態度(理性)なのだろう。
<本性の対義語を調べて驚いた。ちょっと考えればわかるのだが、理性だったとは>
そういう意味では前述の親に悩みを相談する人達も、家族に相談し(本性)、社会にはある程度の距離をとる(理性)のかも。
あまり意味のない思索のように感じるかもしれないが、こう思ったのも、拙者が家族と社会に対しての違いがさほどないからだ。
あるとしたら、家族に対しては中立的な立場をとるが、社会に対しては主導的な立場をとる。と言ったところか。
家族内での中立的な立場は言わば適所対応であり、社会に対しての主導的立場は家族間の立場の反動なのかもしれない。
そう考えると自分の場合はどちらが本性でどちらが理性なのかがわからない。が、今までの例に当てはめて考えれば、適所対応な中立的立場が本性で、主導的立場が理性なのだろう。一応理解できる。
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専門学校生
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自己紹介:
エゴイストだからこそ御節介を焼いてしまう。そういう偽善者こそが「人間」だと思ってる。
・2年間の引き籠り経験アリ
・2年目で大学中退
・2年間の浪人生活
・某宗教団体に参加していた
「共存」に興味があるので、愛読書は自ずとそれ系の「風の谷のナウシカ」「カムイ伝」「寄生獣」、小野不由美の小説。
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